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若草色のシャツと白いスラックスに着替えた後、家の住所と簡単な地図が書かれたメモを持って部屋を出た。
右のポケットに収まっている小さな財布には、砂和子からお小遣いと称して貰ったお金が使われずにしまってある。
心の中で大きなため息を1つついて、敷地内から足を踏み出した。

家を出て3分の場所にある停留所からバスに乗り込み、目的地を目指す。
斜め前の座席には、自分と同じ年くらいの女の子が短いスカートから白い足を剥き出しにして座っている。
笑い声がざわめき、携帯の着メロが響く。
自分だけ何処かに取り残されているかのような不安に駆られ、強く目を瞑る。



* * * 



バスに揺られること45分。
砂和子の家に負けず劣らず大きい邸宅の前に[カヲル]はいた。
初めてのお客様から、家に呼ばれることは珍しい。
しかし、この家にも訪れたことは過去一度も無く、メモに書かれていた名字にも覚えが無い。
インターフォンを鳴らすと、スピーカーの向こうから年配の女性の声がした。

「どちらさまでしょうか」
「…華胥から参りました、カヲルと申します」
無理に作ろうとするわけでもなく、明るい声が発せられたことに内心驚く。
慣れてしまうのは、或る意味でもっとも怖いことだ。
「かしこまりました。門を開けますので、お入りください」
「有難うございます」


玄関で『旦那様』のいるらしい奥の書斎に通された。
40歳くらいに見える男性が目の前に佇んでいる。
男性はカヲルを此処へ案内したお手伝いと見れる女性に二言三言伝えた後、カヲルの方へ向き直った。

「華胥から参りました、カヲルと申します」
先程と同じ台詞を繰り返す。
男性の眼鏡の縁が電灯に反射して光った。
「あぁ、すまないが君には私の息子の相手をして貰いたい」
「はい」
「…息子の部屋は此処を出て右にある階段を上がって、左の奥にある」
「かしこまりました」

「行きなさい」という言葉に対して、一礼で応え書斎を出る。
自分に父親が居たとしたらあんな感じなのだろうかという考えが頭を掠めた。

音を立てずに階段を上り、左奥にある一室の前で止まる。
こんこんと硬い音が響いた後、部屋の住人から応答があった。
「入りなよ」
「…失礼します」

広い一室の隅にある机に向かい、キーボートをリズミカルに叩いている彼の背中に向かって、今日3度目の台詞を口にする。
「華胥から参りました、カヲルと申します。…基本的に何でも致しますが何を――」

不意にキーボードの音が止み、言葉をさえぎって、彼は[カヲル]を振り返りざま、こう言った。
柔らかい声が部屋の中に響く。


「…香蒔?」