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海は近くのバス停まで自分の手を引いて送っていってくれた。
もっとも、「心配だから家まで送る」と言った海だったが、
「美空ちゃんが待っているんだから」と断ったのだ。

海はずっと、香蒔の手を握り締めて離さなかった。
何も話さず、バスが来るまでの10分間。
風の音だけが響いていた。


「気をつけて帰れよ。あと」
「判ってる。大丈夫だよ、海」
「…何かあったら言えよ」
「…うん」


ようやく離された手のひらには僅かな痺れとぬくもりが残った。





「ただいま戻りました」
「お帰りなさい、香蒔さん。入ってらっしゃいな」
「失礼します」

いつもと何ら変わらない応対に妙な安心感を覚えつつも、
香蒔は襖を開けた。

「少し遅かったのね。寄り道でもしていたの?」
白い指先が頬に触れる。
昴のそれが脳裏を過ぎったが、目を閉じてやり過ごした。


「はい。帰りに海と偶然会ってしまって…。ちょっと話をしていたんです」
「そう…。天気もいいからついつい長話もしてしまうわよね」
「はい。心配をかけてしまってごめんなさい」
砂和子は微笑んで、香蒔の髪を梳いた。


「あのね、香蒔さん。金曜のお客様ね。藤様。明日の夜にご依頼が入ってるのだけど大丈夫かしら?」


鼓動が高鳴る。


「先日のお客様…ですか?」
「ええ。香蒔さんの体調がもうよろしいのなら、受けてもいいかしら?」
「…はい。大丈夫です。もうすっかり良いですから」
少し声が震えたが、顔に笑みを浮かべる。
砂和子は安心したように優しく微笑んだ。

「それじゃあお電話しておくわね。さ、着替えてらっしゃいな」
「はい。判りました。失礼します」



砂和子の部屋の襖を閉めて、長い廊下を振り返った。
純和風の家屋に似つかわしいFAX機能のついた白い電話。
一瞬、海の顔が浮かんだが、受話器を取ることは出来なかった。