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香蒔は翌朝、海の沈黙の攻撃にあった。
海が眠気の為無口なのは毎日のことであるのだが、
この日に限って不機嫌さが荒々しく目立っている。

「晩に、何かあったの?」

と、問い掛けてみたものの顔を背けるだけで答えない。
結局は香蒔もどう対処したら良いかわからず、そのまま昇降口で別れた。


しかし、放課後になって海のほうから香蒔のクラスに顔を出した。
香蒔の鞄を小脇に抱えると、昇降口とは逆の方へさっさと歩いて行く。


「海、待ってよ。帰らないの?」

海の数歩うしろを香蒔が追い掛けた。

「帰らない」

「海だって今夜出張でしょ、時間はいいの?」

「黙れよ」

「・・・・、」


そのまま、赤錆の階段をのぼり屋上ヘ出た。
清潔なひかりに目が眩む。
初夏、午後5時近くてもまだ日が充分高く、風は緑風を帯びて冷たい。

フェンスに張り付いて、香蒔は空を見上げた。


思わぬときに、突然遠い過去に戻る事がある。

砂和子のような女性に母親の影をみるとき
オルゴールや万華鏡を手にとるとき
夜が遠退いた世界に立ったときに


「・・・気持ちいいね、ここ」

素直さから滑りでた香蒔の言葉が
冷静さを1本線の上でこらえていた海を余計に掻き乱した。

後ろから両肩を掴まれ、そのまま反転して抱きしめられた。


「何で、黙ってたんだよ」

「・・・・え、」

両腕の束縛が強くなる。

「今夜も、昴の家に行くんだな」

「どうして・・そのこと」

「お前を・・・、倍の金額で買い取ってでも行かせない」

首筋に温かい痛みが走っても、鼓動は高くならなかった。
知られてしまった焦りよりも安心感が勝り、
香蒔はしばらく海の腕の中でじっとしていた。

しかし、乾いた5時のチャイムで我にかえり
香蒔は両手で海の胸をついて離れた。



「・・・・黙っていたことは悪いと思ってるけど、」

ふたたびフェンスに身を預けると、首筋や手首から風が海のぬくもりを奪って行く。

「でももう少しなんだ、もう少しで全部わかる気がする」

「だから、どうしてそう・・・!」

「身体は覚えてたよ。昴のこと、」

海は言葉を詰まらせ、唇を噛んだ。
夜は次第に迫り、日は赤を帯びてそそくさと西へ逃げて行く。



「絶対に、戻ってくるから」