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「何かあったんですか、お兄さん?」

携帯の向こうから聞こえた海の声は、普段通りの口調ではあったが、予想以上に
憔悴していた。


何かあったのだろうが、そういったことを表に出すような性格ではない。
ましてや、事情をしらない自分が踏み込んでいい問題でもない。
自分の負の面への干渉を頑として拒む。
そんなところが妙に彼女と似ていて気に入っていた。


「いや、陸くんから店に電話があってね。
 今日は一度家に帰らなかったようだから、何かあったのかって心配してたよ。」

「…陸の奴…すいません、迷惑かけて。
 今日は学校の前で、嵐史が仁王立ちしてて帰るに帰れなくて」


『僕は帰ってもいいよっていったのに、そのままこっちに来たがったのは海だろ』
という台詞が小さく聞こえた。
この間自らこの世界に足を踏み入れたという少年の声らしい。


「同じようなもんだろ……ってわけなんで、大丈夫です」

「そうか、分かった。陸くんには店の方から折り返し電話するっていってあるから」

「…はい、じゃあお願いします。―――あの…」


遠慮がちに加えられた言葉。
小さな声だったが、ヤケに耳に残った。


「どうした?」

「…柊さん。1つ頼んでもいいですか?」


いつも「お兄さん」と呼び、自分の本名を呼んだことがない海。
今、彼から発せられた自分の名前。
自然と顔がこわばる。


「聞いてから判断するよ。危険なことじゃない限りは断らないから」


その台詞に苦笑しながら彼はいった。

「危険なんかじゃないですよ。香蒔のことなんですが、もし変わったことがあっ
たら、知らせてもらえますか?」

「それは構わないけど…、変わったことって例えば?」

「何でもいいんです。柊さんがみて、様子がおかしかったり…。
 あと、もし何処かへ出張ってことがあったら。」

「…分かった。何かあったらすぐに連絡するよ。携帯の方がいい…よな?」

「はい、すいません。こんなこと頼める人他にいなくて」


しおらしげに続けた言葉に茶目っ気が感じられ、安堵する。


「気にするな。お前もあんまり無理するなよ?」

「はいはい。…あ、もう1つ、いいですか?」

「ん?」

たっぷり10秒ほど逡巡した後に、言葉が続いた。


「もし、もしも。今日香蒔が俺の様子を気にしてる風だったら、
 何も変わりなかった、って。そう伝えてくれますか?」

「あぁ…、何かあったのか?」

「やだなぁ、大丈夫ですよ。そんなに大袈裟なことじゃないんです。」

「…まぁたまには頼れよ。じゃあまたな。」

「はい、じゃあ」




―――これが普通のバイト先の先輩後輩同士の会話だったら、こんなに気にする必要もないのだろう。
だが、ここに入り込んだ彼らは達観しすぎている。


このときは未だ、嵐はやってきていなかった。