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光のない瞳から、次々と流れ出す涙。
暗闇にも目が慣れて、カヲル―――否、香蒔はぼんやりと昂を見つめていた。
何故、こんなに苦しまなければならないのだろう。
――僕は、まだ思い出せる記憶が曖昧で断片的で、
誰にも非がないとは言えないのかも知れないけれど。
でも、僕も、昂さんも、…多分嵐史さんも、きっと悪意なんて無かったはずで。
ただ、結果として、その過去が僕らを苦しめている。
「こんな風に目が見えなくなっちゃって、嵐史のことを恨んだよ。
嫌いじゃなかったんだ、本当は。
だけど、嵐史は僕のことを疎ましいと思っていたみたいだった。
それに、母さんが死んで、もう頼れるのは父さんしか居なかった」
「今は、嵐史さんは1人で暮らしているんですか?」
「うん。僕の所為でね」
「…え?」
「嵐史は知らないと思うけどね。
どんな理由があっても、嵐史が[僕の目にスプレーをかけて、視力を失わせた]
ってことは、法的には裁かれることなんだよ」
まなじりに涙を溜めたまま、眉間に皺を寄せた。
顔を歪ませて、昂は笑う。
「藤家の財力なら、お金で解決することも充分可能だった。
だけど、父さんは少しでもこのことが露見するのが嫌だった。
僕はそれを分かってた。嵐史を警察に売る真似なんか、父さんには出来ない」
「それで…?」
「脅した、って言えば分かるかな?嵐史とは一緒に住めない。
嵐史が出て行かないなら、僕が出て行く」
「そしたら、僕が警察へ行こうとしても、止める権利は無いよ、ってね」と、
昂は自嘲的な笑みを浮かべた。
痛々しい笑いだった。
気づかぬ内に泣いていた香蒔は、小さく嗚咽を漏らす。
昂は、香蒔の身体を自分の方に引き寄せて、抱きしめた。
「ごめんね、こんな話をして。…香蒔、僕は酷いことをしてしまったよね。
それでも君に、明日一緒に居てほしいんだ。
僕を乗せたベッドが手術室に吸い込まれるまで君を傍に感じたい。
麻酔から覚めた後に、視力が回復した後に、一番に君をこの眼で見たいよ…」
赤子のようにしがみ付いた昂の、首筋に押し付けられた熱い唇。
その感覚に、香蒔は海の面影を見た。
今すぐに、この手を振り解いて、あの屋上に時間を戻したかった。
海に、会いたかった。
けれど、その決断を下すほど、香蒔は強くなかった。
昂が、記憶の中で、砂和子におそるおそる手を伸ばした自分と重なったから。
昂が泣き疲れて眠ったあと、目が腫れないようにと冷却シートを施して、
静かに香蒔は廊下に出た。
連絡するときに使うように言われた電話で、掛けなれた番号へ電話をかける。
5回目のコールの途中で、相手が出た。
「はい、こちら華胥です。ご予約ですか?」
「…柊さん、ですか?香蒔です」
「香蒔か。どうした?」
「あの、僕今日出張だったんですけど、直接依頼が入ったので連絡が遅れてしまって」
「…あぁ、そうか。分かった。オーナーには話は通ってるようだから、大丈夫だ」
この時間だと、お客様のお帰りラッシュだろう。
電話口の背後は忙しないようだった。
「…あの、海は?」
「あいつはまだ出張だよ。さっき電話したけど、何も変わりは無かった」
「…そうですか」
「…何かあったんだろうけど、きっとあいつは大丈夫だから。…でも、しっかり支えてやれよ?」
「はい…。ありがとうございます。あと、」
「ん?」
「僕、今日お客様のところに泊まって、そのまま明日丸一日お客様の方に付き添います。
今時間が無いので…悪いんですけど、オーナーに伝えてもらえますか?」
「あぁ…わかった。念のために…名前は?以前に此処を利用してる人、だよな?」
「はい。先週の金曜の藤様、です。すみません、お願いします。…じゃあ」
受話器から耳を離して、一息つくと汗が吹き出た。
海の顔が頭をちらついた。
涙をこらえて叫んだ声、歪めた表情。
それを振り切って、香蒔は昂の部屋のドアを開けた。