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翌朝香蒔は、寝台で運ばれる昴に付き添い
手を握りながら表情を硬くする昴に絶えず声を掛け続けた。 

そして手術室前に到着すると、看護婦が香蒔に目配せをする。 


「昴さん、手術室に着きましたよ」 

昴は一層強く香蒔の手を握り、自動扉の開く音と共に手を放した。 

「昴さん」 


看護婦が昴の肩をそっと叩き、香蒔を手離した手を取って
手術室から出てきた医師の1人の手を握らせた。 

「このお医者さまが、貴方の目を取り戻してくれますよ」 

「澤上です。一緒に頑張りましょう」 

医師が強く握った手に、昴が「よろしくお願いします」と、ぼそりと頷き返した。 


「僕、ずっとここで待っています。だから、頑張ってください」 

もう一方の手を握った香蒔の手の温かさに、昴はようやく微笑んだが、
すぐに眉をひそめ、上半身を起こして薄暗い廊下の奥を見詰める。 

「昴さん・・・?」 

「昴さん、横になってください。手術室へ入りますよ」 

「ちょっと待って、」 


昴は誰よりも早く、こちらへ小走りにくる2人の人間の足音を察知したのだ。
暗い瞳の中に、冷たい光が宿った。 

「―――香蒔!」 

自分を呼ぶ、聞き慣れた声に香蒔は振り返る。 

「―――海!?」 

怒りを露にした態度で歩み寄り、香蒔の二の腕を掴む。 

「帰るぞ」 

「待って、海!どうしてここに・・・」 

海は無言で引っ張るが、もう片方の香蒔の手を昴が放さない。 

「行かせない、香蒔」 

甘えた声と反転した、昴の鋭く低い声に香蒔の背中がゾッと燃えた。
昴は香蒔と海、その向こうを睨んでいる。 

「いるだろ嵐史!これ、お前のグル?」 

「可愛いぜ。目が良くなったら遊んでもらえよ」 

靴音を響かせて近寄ってくる少年に、香蒔は息を呑んだ。 

「嵐史・・・・」 

「光栄だな、覚えていてくれたんだね香蒔」 

香蒔は咄嗟に首を横に振るが、構わず嵐史はつづける 

「海、ちょっといいか。
お前が今これを勝手に持って行っちまうと、この場で勝敗が決まらないからな」 

香蒔の二の腕を掴む海の手を強引に解き、間に割って入る。 

「よぉ、調教師。相変わらず厚かましいじゃないか」 

「久しぶりだね嵐史、また背が伸びたんじゃない?」 


「――――なんなんだ!君達は、」 

「先生、時間がありません。早くこの子たちを―――」 

呆気に取られてぼんやりしていた医師や看護婦がようやく我に還った。
しかし、 

「俺は藤嵐史だ。5年後の保証が欲しかったら、黙って待ってるこったな!」 

「これは昴さんの未来に関わる手術です!兄弟喧嘩なら、後からでいいでしょう」 

「藤財閥の未来に関わるんだよね。5年後の保証が欲しかったら、待ってて欲しいんだけど」 

唇の端を持ち上げた昴に、医師と看護婦は息を呑んで後退した。 

  

「―――声聴くだけで身長も分かるのかよ。なら、お前に目は必要ないんじゃねぇか」 


嵐史のその言葉に、挑戦的な笑みを浮かべた昴は、
香蒔の片手を握ったままベッドを滑り降りて、
後ろから抱きすくめるようにして喉元に指を這わせて、耳元で囁く。 

「香蒔、3年前に教えてあげたよね。・・・嵐史と遊んじゃ駄目だって」 


眩暈とともに、記憶が襲う。 

眉間に緊張を張らせたまま立ち尽くす海の向こうに、暗く延びる廊下 

   ――――暗く延びる廊下を昴に腕をとられて、
       北向きの暗い座敷に連れ込まれた 


「香蒔、思い出してみろ。そいつがお前に何をしたのか」 


香蒔の瞳孔の奥で、花瓶の割れる音がした。 

   ――――花瓶の割れる音がした。
       うつ伏せに押さえつけられ、頬を生温い水がぬらす
  


「教えたよね香蒔。嵐史は、折角父さんと幸せに暮らそうとしていた僕の母さんを、
・・・・殺したんだよ。だから、嵐史と一緒に遊んじゃ駄目だって」 

昴のその言葉に、嵐史の落ち着き払っていた声が崩れた。 

「―――何勝手なこと抜かしてやがる。お前の母親は、自分で勝手に死んだだろうが!」 


   慟哭に近い怒りを、自分の手首を押さえつける熱い指に感じた。 

   ――――座敷一面に敷き詰められた紫色のリラ 


   座敷一面に敷き詰められたリラが、
   荒い足音の振動で小さな花弁を震わす 


「母さんを自殺に追い込ませたのはお前だろう!」 

「妾が男の本宅で暮らす方がどうかしてるんだよ!母さんの骨壷が、まだ家にあるうちに
お前等が住み始めて、父さんも会社も、俺から奪ってゆくのかよお前は!」 


   荒い足音が紫の座敷に乗り込み、立ち尽くす。 

   ――――リラに埋葬された僕をみて、嵐史は一瞬立ち尽くした 

   嵐史と昴の言い争い。
   掴みあって、そして、悲鳴が上がった。
   


怒りを剥き出しにした嵐史を前に、昴は涼しく微笑んだ。 

「当たり前だよ。だって、母さんがそう望んでるんだから
だから僕は、今日の手術が終ったら、香蒔を連れてアメリカへ行くよ」 


   いつから、 

   ――――いつからわからなくなったのだろう 

   母の手を握った最後の記憶が、荒く振り払われたことしかない僕を、
   優しく抱きしめてくれた昴の気持ちが、いつ反転してしまったんだろう 

  

「香蒔!!」 

記憶と現在の間を彷徨い、昴に拘束されたまま立ち尽くしていた香蒔の名を
現在に一番近い場所で、愛しい声が呼ぶ。 

  

   戻れない 

   ――――もう、愛せない
   ずっと一緒にいたかったのに、あの日のリラが距離を作ってしまった
     

「選べよ香蒔!」 

  

   聞こえない 

   ――――昴の声が聞こえる場所に僕はいない 

  

僕は、すぐ傍にある温もりを知っている 

  

香蒔は昴の手を振り払い、海の腕に飛び込んだ。 

目の合う一瞬、 

不器用な笑顔をみせた海は、
そのまま香蒔の手を引いて走り出した。