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夕刻、《カヲル》は前回訪れたときと同じように家政婦の指示をうけ、藤家に足を踏み入れた。
門からは、若い薔薇の蔓が屋敷の玄関までのびる小道のまわりに集合し、
カヲルは緊張のせいか居心地の悪さを感じた。できれば、すぐにでも引き返したい。
今、昴のことに輪を掛けて「海」のことが重く圧し掛かっている。


《ウミ》とはほぼ同期で華胥に入り、《光司》の指導も共に受けてきた。
彼は同僚のひとりであり、愛情を隔てた好意はそれなりに持っている。
予行としてのSEXは何度もしたが、恋愛とこれは全くの別ものだ。

「好きだ」と言われたその場では何も言えず、
カオルは海を置き去りにして逃げてきてしまった。
まだ、温かく痛む首筋に後ろ髪をひかれる。


「香蒔っ!」

ゆがんだ小道の向こうから、たどたどしい足音と自分を呼ぶ声がした。

「昴−・・さん?」

現われた昴は、盲目者の使う白い杖を握っているだけで使うわけでもなく、
カヲルに駆けより、躓きざまに抱きついた。

「あ、危ないですよ」
「んー怖かったぁ・・だって香蒔、君ったら門から家まで歩くのに、何分かけるのさ」


カヲルの顔を指で探り、目の焦点を正確にあわせ、微笑んだ。

「すみません・・・、心配をお掛けしました」
「なんだよ、硬っ苦しい。さ、行こうよ。今日はちょっとお願い事があるから」

くしゃりと笑った昴は、そのままカヲルの左肩につかまるようにして屋敷の玄関へと進んだ。



前回の訪問と違い、客間に通されたカヲルは昴と共にソファに座り、
遅れて入ってきた藤氏と向かい合った。

「店のほうでは君、客の引っ張りダコだそうじゃないか。
何か、私達が独占してしまって悪い気もするのだがね・・・、」

カヲルが否定の言葉をさがすうちに藤氏は「明日なのだが」と、
葉巻をくわえながら話を切り出した。

「その昴が、視力回復の手術をうける」
「手術を・・・」

昴はカヲルの肩から手を離した代わりに、
顔をカヲルの背とソファとの間に埋めるようにして凭れかかった。

「成功する確率も高いし、最新治療だ。心配することは何もないのだが、本人がこの通りなのでね。
 しかし私は、手術後のビハビリに備えて今夜中にもアメリカに行って準備をしなければならん。」

「渡米してビハビリを・・・!?」

昴は何も言わないが、掴んだカヲルのシャツの裾を強く握った。

「だから君に、手術直前と直後昴と一緒に居てやって欲しい」

煙草を深く吸い、長く吐き出した後カヲルの目を見詰め「良いかな」と言った。

「はい・・、承知しました」

カヲルの言葉に顔をあげた昴は、

「ずっと、一緒にいてね香蒔・・・」

と、お礼のかわりに手を握った。


「それでは、ビジネスの方の話をしようかカヲル君。昴はその間に風呂に入ってしまえ」
「えーっ・・・香蒔、」
「カヲル君を呼ぶかわりに、一切口答えをしないと先刻約束したばかりだろう」

鋭い叱りに、昴は小さく返事をして引き下がり、
しぶしぶ立ち上がると家政婦に手をひかれて客間を出て行った。

「お礼はこれでいいかな、」

藤氏は小切手をテーブルの上に滑らせ、葉巻を手で弄びながら窓辺へ立った。
カヲルは小切手を手に取るわけでもなく、ただ俯いた。

「足りないかね、」

窓に凭れ掛かり、藤氏はカヲルの横顔を伺う。
カヲルは首をふり、顔をあげた。

「―――何故、僕なのですか?」

涙が頬を伝う。

「その質問は、少々適さないな」

藤氏は歯をみせて笑った。

「―――僕は、誰ですか?」


《香蒔》の声を、葉巻の煙が絡んで消してしまう。

「今夜はこのまま泊まりなさい。必要なリネン等は、昴の部屋に用意してある。
 店に連絡をいれるのなら、廊下の電話を使ってくれ」